雲南の秘境・老君山(ラオチュンサン)

国内線の飛行機に乗り込み2時間を過ぎると、眼下には日本のような緑に満ちた山岳地帯が現れてきた。麗江に降り立つと標高が高いので、少々冷んやりする。バスに乗り込み市街地を目指す。ヨセミテに続く120号線を想起させるような風景だ。

麗江の市街地で予約しておいた乗合タクシーを待つ。個人経営なので運行するかしないか直前までわからなかったが、老君山まで連れて行ってくれるらしい。待ち合わせ場所で待っていると肌の灼けたおばさん運転手が笑顔で迎えてくれた。ここ麗江の人々は東アジア人というより、東南アジアの人々に似ている気がする。
お客さんを道中で広いながら老君山を目指す。長江の隣に走る226省道を北上し、中興村で左に曲がる。支流の脇をさらに走る。国立公園のゲートをくぐると、そこは辺り一面真っ赤な世界が私たちを迎えてくれたのだった。













黎明の町から晩餐岩を眺める


リースーエリア  

 町から歩くこと30分。標高2000M のアプローチは中々疲れる。アップによさそうなルートは登っている人がいたので、まずは5.10dからやってみることに。10dだと「クレイジージャム」を想像しいきなりトライするグレードではないかもしれないが、やってみると楽しく登ることが出来た。次に5.11-のルートをやってみる。奥にハンドジャムが決まる20m程の美しいフレアードチムニーだ。心が折れそうになるころに終わりが見えてきてほっとした。5.11+のルートは左上するフィンガークラック。出だしのガタガタしたクラックのプロテクションが悪く、思いの外苦労してしまった。レイバックの体勢で登るフィンガークラックに移ってからは思い切って登ることが出来た。このルートのオンサイトは本当に嬉しかった。

 翌日、リースーエリアの左側のエリアに行ってみる。5.7、5.8と面白いクラックを登った後、欧米人クライマーがトライしていたルートが面白そうだったのでやってみることにした。実はこの時ルート図を持っておらずどういうルートか全く分からなかったが、多分5.11台だろうと勝手に検討をつけて登ってみた。しかし、実際は難しかった(5.12c)。二回目はトップロープでトライして、とりあえずノーテンションで登れたのでよしとした。いつでもいいので完登出来ればいいやと思っていたが、中国人クライマー・ヤンファンがトライしたいというので、次の日も登ってみることにした。

 滞在三日目、「The Reckoning(5.12c)」に沢山のクライマーが集い賑やかになる。みんなでセッションするかの様な雰囲気の中、私の順番が回ってくる。私はこの日最初のトライでレッドポイントすることが出来た。続いてアメリカ人夫婦も完登した。ヤンファンは惜しかったけれど落ちてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

The Reckoning(5.12c)




老君山クライミングフェスティバル

 クライミングフェスティバルが始まる何日も前から「ユージは来るのか来ないのか?」と中国人クライマーのなかで何度も話題になっていた。そして、もしユージが来るのならここ老君山で最難ルートである「China Air(5.13d R)」をトライしてもらうのだという話でもちきりだった。

 初日の夜、開拓者のスライドショーの後、現地の方が民謡を披露してくれた。ここの少数民族の暮らす文化は大分漢民族のそれとは違うような気がした。二日目朝から岩場(リースーエリア)で講習会形式のイベントが始まる。招待されたアメリカ人クライマーが紹介される。彼らが中国各地から集まったクライマーにジャミングの仕方から教える。そして、平山ユージが紹介されるとそれまでの雰囲気ががらりと変わり、絶叫がこだまする。ここ中国では、平山ユージはヒーローであった。班分けしてからの講習がひと段落すると、平山さんによる「China Air(5.13d R)」のデモンストレーションが始まる。中国人クライマーの眼差しは真剣そのもの。このルートは前半はクラックが走っているがプロテクションが悪く、後半はボルダーチックなフェイスという内容だ。最初のトライでナッツが外れたようだ。二回目のトライはトップロープで入念にムーブを解析していた。翌日もう一度トライしてレッドポイントしたいとのことだった。その夜もどんちゃん騒ぎ。初日の夜こそ地元の人が踊って盛り上がっていたが、この日はクライマーが本領を発揮していた。私も中国の薄いビールをしこたま飲みすっかり酔っぱらってしまった。

 三日目もリースーエリアへ。印象的だったのはオフィドゥスのルートである「Second Half of Provider(5.11+)」をリードするCeder Wrightだった。ほとんど開ききったキャメロットの6番をずらしながら登り、ところどころビックブローを決めていた。本人は素晴らしい挑戦ですねと前向きな発言。フェスティバルの前にこのルートを見た時はとてもリードする気にはなれなかったけれども・・・。平山さんは再びChina Airをトライしていた。結局登れなかったようだった。個人的には他にも素晴らしいルートがあると思っていたので、ちょっと残念だった。そうしてフェスティバルは盛況のうちに終わったのだった。

フェスティバル朝の様子。招待クライマーの紹介

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

China Air(5.13d R)をトライする平山さん


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Second Half of Provider(5.11+)

ほぼ、開ききったキャメロットの6番とビックブローを併用し登るCeder Wright。

上部は右のクラックに移るが結構奮闘的。

 

 

夜の祭り様子。みんなで輪になって踊る。男性は猛々しく。女性はおしとやかに。



「叮咚」ティントン(5.12)

 フェスティバルが終わり下山していると道中でヤンファンと会う。「ティントンをやらないか?」と彼は言う。ティントンはフェスティバルが始まる前に一緒にトライしたルートだった。核心部分がシンハンドクラックのルートだった。高グレードのクラックはシンハンドが多い。前回でムーブを大体解析することが出来ていたので、すでにレッドポイントを狙う態勢にはなっていた。前回トライした時核心のシンハンドクラックは非常に難しく感じられたが、今回トライすると何度か落ちそうになりながらもジャミングはすんなり効いてくれた。完登することが出来た。ヤンファンも完登した。

 ティントンというのは日本語でチャイムの効果音であるピンポーンに相当する意味らしい。また老君山の町に住む小さな飼い犬の名前でもあった。ここに住む犬たちはみな放し飼いされているが、穏やかな地元の方々とそっくりで人懐こくかわいらしい。私にとって老君山において二本目の5.12であるが、それ以上の価値があるように思えた。

「叮咚」ティントン(5.12)を登る。オフィドゥスからシンハンドへ。中国人達は左のクラックを使っていたが、使わない方がすっきりする。



日本牛仔(Japanese Cowboy)5.12+

 これは一際目立つルートだった。最初の機会の時は先客がいてトライ出来なかった。このルートは2ピッチ目にあるので、あまり無理やり混じることはしたくない。二度目の機会はヤンファンから誘いがあった時だった。しかし、ちょうど疲労が一番溜まっている時だったので断りを入れた。そうして手をこまねいている間にヤンファンが登ったというニュースを耳にした。その頃このルートは未登という扱いだった。開拓者は終了点のボルトを、マントルを返さないとクリップ出来ない位置に埋め込んでいた。そのマントルというのが非常に難しかった。個人的にはそれまでの奮闘的なオーバーハングしたクラックを登って来て、そのレベルを遥かに超えた難しさだった。開拓者はきっとクラックそのものは「完登」しているに違いなかったが、きっと誰かが最後の核心を解決してくれることを願って、その位置にボルトを打ったのだろうと思った。現在は終了点をヌンチャクでのばして、それにクリップ出来れば終了としているようだ。やはりヤンファンは最後のマントルは返せなかったということだった。

 ずっと登ってみたいと思っていた。登ればきっと素晴らしいクライミングが出来ると信じて疑わなかった。しかし、思い浮かべるたび心臓の鼓動が高鳴り、プレッシャーを感じないことはなかった。麗江のクライマー、ゾウレイと相方と3人で2P目のテラスにあがる。まず私がリードしてトップロープを張る。ゾウレイと代わりばんこで登る。二回目のトライでトップロープでワンテンとなる。三回目はギアをプリセットした状態でリードすることにした。私もマントルは出来なかった。なので、終了点から伸ばした状態でクリップすることに。マントルを除けば最大の核心となる前傾レイバックは辛くも突破出来た。ここを越えればあとは絶対に落ちられない。最後の終了点にクリップした瞬間、力尽きてしまった。ぎりぎりだったが素晴らしいクライミングが出来たと思った。

日本牛仔(Japanese Cowboy)5.12+の全景

晩餐岩のマルチピッチ。高度感があり素晴らしい。



日の出ずる町

 日本牛仔を登り終え、もう老君山を離れる時だと思った。三週間ほどの滞在だった。穏やかな山岳気候のなかで生活を営む少数民族の人々。みんな一様に肌が黒い。顔立ちが整っていて美男美女が多い。私たちが通った食堂の看板娘は本当に無垢で美しかった。きっと高校生くらいの年齢だろうが、きびきびと働いていた。私は彼らのささやかな幸せがずっと続いてくれるようにと願いながら、この黎明という名の町をあとにした。